コロナ禍の春再び

新しい春がきた。

新しい家、新しい職場、新しい学生とのスタートだ。お互いに緊張しながら顔をあわせ、これから学ぶであろうこと、未知の可能性について話をした。学習は、「いまだここにないものを学ぶ=Learning What Is Not Yet There」(Engeström)営みである。協働で何をつくりあげることができるか。私も楽しみだったし、彼/彼女らも非常に楽しみにしてくれているように感じた。どの授業でも手応えを感じ、「ここでもやっていけそうだ」と思った。毎晩、次の朝が来るのが待ち遠しかった。


だから、授業が再び遠隔になるのはとても恐かった。昨年度はオンデマンドを駆使したが、動画の撮影や編集、各種教材のデータ化には大変な時間がかかる。研究時間の確保や家庭生活を思えば、今年度はこれを継続するわけにはいかない。Zoomを用いた同時双方向授業でも対面同様のLIVE感を出すことはできるが、学生同士の学び合いや、「ともに何かをつくる」という営みは構想しにくい。これは現在進行形で力不足を感じているところだ。私が想定していたのは、静かな自室でパソコンに向かい、授業資料は既に印刷済み、朝ごはんを食べ終えて、ばっちり授業に向かう準備ができている学生だった。しかし聞いてみると、スマホで授業を受け(チャット機能は使いにくいし、プログラム間の移動や大画面での視聴は困難)、授業が始まる直前に起き、資料は印刷していない、カフェにいて発声できない、などの受講生もいた。起床はさておき、これらは学生のせいではないことも多い。学資支援とともに、授業が楽しみで仕方ないという認識をつくなければこれらの問題は解決しないので、ここは腕の見せどころだと試行錯誤している。


とりわけゼミについては、私の期待も、おそらくは学生たちの期待も大きかったため、遠隔化の話を聞いた時には落胆した。ただし、若い力はすごい。残念がっているだけの私をよそに、「今できることを」と、インスタの作成をさっさとしてしまった。なんだか知らないうちに自己紹介もはじまっている。しかもスーパークール。異学年や異ゼミ間での交流を惹起しようとしているのか、「開かれたゼミ」のスタート地点を着々とつくっている。

https://www.instagram.com/zemi_yamada/?hl=ja


これをよそ目に、私は小学校でよくある、自画像を教室の前に張り出す実践を思った。クラス開きをするときに、学級目標とともにみんなの似顔絵を目につくところに掲示するのだ。問題は、担任の顔をそこに入れるかどうかである。


私はこれまで、なんならセンターに自分の顔を置いてきたタイプだ。主役はお前じゃないだろという天の声が聞こえるので、一応周りを見渡してからそうするのだが、勝手に「私がいなきゃダメね」とそうしてしまうのである。しかし今回は、私の顔を貼る必要はなさそうだ、というのが今のところの手応えだ。


自治の先に良い卒論や良い進学や満足のいく大学生活がある。そう信じて出発したい。