第28回教育思想史学会@大阪大学

9月9日(日)、大阪大学で開かれた教育思想史学会に参加してきた。午前中のコロキウムは「近代仏教と教育をめぐる学説史的研究・序説」(企画者・司会者: 真壁宏幹先生、渡辺哲男先生、報告者: 真壁宏幹先生、渡辺哲男先生、田中潤一先生、指定討論者: 山本正身先生)に参加し、午後はシンポジウム「教育学としてのウィトゲンシュタイン研究: 現在の到達点と今後の展開」(司会者: 丸山恭司先生、報告者: 杉田浩崇先生、平田仁胤先生、山岸賢一郎先生、渡邊福太郎先生)に参加した。要旨はこの通り(http://www.hets.jp/summary-2018.pdf)。

 「近代仏教」と教育の関係については、禅に関する限りで一家言あるが、考えたいと思った点は実践とのかかわりについてだった。つまり、仏教思想を教育活動として具体化したときに、別のものに変わってしまうということが起こるのではないかということ。奇しくもこの日の報告で(レジュメ上に)登場した実践者は、3名とも綴方教師だった。芦田恵之助、野村芳兵衛、東井義雄である。

 「近代仏教」が国家体制を支えるような思想的基盤を有していたとしても、綴方になった瞬間、現実改革の側面をもってしまう。それは社会の「ありのまま」を描写しようとする活動だからである。ただし、ここに微細な権力装置が働くことは、数々の研究者が指摘してきたことで見過ごす訳にはいかない。たとえば、「お腹が空いてひもじい」と書くのもありのままだし、「お腹が空いたけどお国のことを思えばひもじくない」というのもありのままだからである。芦田の場合、綴方を書かせるときの「文話」が思想統制に一役買っていたし、他の綴方教師も、自覚・無自覚にかかわらず方向付けは行わざるを得ない。

 ともかく、思想と実践との関係を突き詰めない限り、(とりわけ新教育期の)仏教思想と教育とのかかわりは捉えられないのではないだろうか。「学説史的研究」といった時、実践への眼差しは除外されるのか。追求しなければならない問いを多数いただいたコロキウム・シンポジウムであった。


神戸女子大学 文学部 教育学科

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